◆チームブログ◆ 経済面と倫理道徳面の一致について
- shigeru-nagai
- 2023年6月24日
- 読了時間: 4分
更新日:2023年7月27日
本日は、日本資本主義の父である渋沢栄一の「論語と算盤」に強く影響を与えたとされる、三島中洲の「義利合一説」「道徳経済合一説」について。
「説いてここに至れば、人あるいは、足下は二十年学舎を開き、多くの子弟を教育す。何を以て学問の標準と為すや問うものあらん。この問に答うるに於ては、拙老も甚だ赤面の至りなり。」(「最後の儒者」三島正明著より)
明治二十八年に語られたという「学問の標準」より。三島翁のいうには、古来の儒者たちは皆、各々の学問の標準を持っていたという話を仰っしゃられたようですね。今風でいうと「価値判断基準」となるのでしょうか。
噛み砕いて説明しますと、「義利合一説」については、人間生きていくには「利」(衣食住)は当然大切ではあるけれど、これと「義」(良いこと・正しいこと・道徳心)といったものは、それぞれが別ではなくて、一心であるというものです。 なので、「利」を求めすぎて、他人を害してでも(陥れるや中傷・加害等)、利益を得ようとした時に人の心は「悪」となると。経済的な競争も、お互いの創意工夫による競争なら結構であるが、故意に相手を中傷するや陥れる等は公平とも言い難く、競争とも呼べるものではないと。
そうは言っても、多くの人は生きていく上では「利」を先行させねばならず、子供はまさしく生まれてすぐは そうであるとしながらも、但し、いったん「義」を知ってしまったのなら、やはり「義」を先にすべきとなると。
「常に義利合一説を問う。義に臨んで一歩を進め、利に臨んで一歩を退く。始めて能く合一すと謂う。」(「三島毅碑銘」より)
「天にありては理気合一。人にありては義利合一。天にありては理は気中の条理。人にありては義は利中の条理。」
明治以降の今もそうですが、資本主義としては「利」から「利」というのは、やや病理的な側面もあるとされていますが、日本資本主義の父たる渋沢栄一に少なからず影響を与えた三島中洲は、こうした「義理合一説」、これをベースとした「道徳経済合一説」をもって、明治以前から醸成され、日本人が受け継いできた「(学問の)標準」であり「価値判断基準」の大切さを訴えておられたようです。
また、「論語と算盤」に影響を与えた「道徳経済合一説」については、以下のような講演の記録が残っています。
「今日は道徳経済合一説というもので講演をするつもりでございます。この合一の説を思いつきましたのは、凡そ学問はつまり知行の二字を出ない、先ず学問をする始まりは物の道理を研究し知るが始まりでございますけれども、詰まりは知るのは行の為です。その知る方では成るだけ分析をして知らなければなりませぬ。しかし、行うとなると、分析したものを一緒にして行わなければ意味がありません。それで、この合一説を思いつきましたのですが、研究する時分には、道徳は道徳、経済は経済と別けて分析をしなければなりませんが、行う時にはもう一つになって仕舞うということであります。この説の出る根原は、私が平生尊奉する陽明学の理気合一、知行合一の工夫を実行する事と御承知を願いたい。」
(明治41年 三島中洲の講演より。「渋沢栄一と二松学舎」より)
最後になりますが、渋沢栄一は以下のように述べていたとされます。
「学問は学問のための学問にあらず。人間日常生活の指南車たらんがための学問なり。すなわち学問は人生処世上の基準なり。ゆえに実際を離れた学問なくと同時に、学問を離れたる事業もまた存せざるなり。ここを以て余は平生論語と算盤説を唱え実業を論語に一致せしめんと企図し、余が尊信する三島中洲先生も同工異曲とでもいうべきか、論語を経済に一致せしめんと説かれき」(渋沢栄一の「論語講義」より)
明治期に記録されているものなのですが、今現在の弊社の展開サービスでも参考になる部分は非常に多く、今でいうCSR(企業の社会的責任)等に留まらない「価値判断基準」を示しているように思います。また、最近流行りのAIにしろ、様々な技術革新は進んでおりますが、普遍性のある哲学や古典も大事にしていきたいですね。正に「温故知新」です。新しい物事も古くを知ると、より良いものが生まれるように思います。
